「承認欲求」
SNS時代の象徴ように使われる言葉。
あまり良いイメージではない使われ方をしているようです。
どちらかと言えば「いいでしょ~私」な、優越感を得たい、他者比較があるようです。
しかし、そもそも「他者に認めてほしい気持ち」は根本的に誰でもが持っていて、
他人を評価しあうのが人間社会・資本経済のシステム。
他人を評価しあうのが人間社会・資本経済のシステム。
そして、これまでの教育は、その「承認」「評価」を、大多数から得られるようにとされてきました。
いわゆる「友達たくさん」。
その「友達たくさん」には前提が隠れています。
「みな同じように」在ること。
私もそのような教育を受けてきた実感があります。
そうして育った大人の社会も「みな同じように」という「空気」があるように感じます。
しかし、その前提と、同列、むしろさらなる前提が、あるべきと考えています。
人には「違うところが、たくさんある」ことを、何よりも、まず認める。
確かに、はじまりは共通項があるほうが、人は打ち解けやすいです。
しかし、同じところもあれば、違うところもある。
「違うところ」は
「違っていいところ」で
「違っていて面白いところ」。
同じは足し算。違うからこそ起きる、化学反応・相乗効果は、かけ算とも言えます。
「承認欲求」が、どこか不自然に感じるのは、過去の教育にも一因あるように感じると同時に、
昨今、私の子育てで垣間見る教育の試行錯誤も相まみえているようでもあります。
昨今、私の子育てで垣間見る教育の試行錯誤も相まみえているようでもあります。
確かに、個性を意識はしているようですが、他者を思んばかるのとは、少々異なるような・・・
「個性」をはき違えた「マイペース」を放置しているような印象があります。
「個性」をはき違えた「マイペース」を放置しているような印象があります。
つまり「違い」の認知でなく、人間関係の放置。
他者と自身の「同じ」も「違い」も、まず認知し「他者を思んばかる」。
その前提にある「承認欲求」はとても自然な思いです。
その前提にある「承認欲求」はとても自然な思いです。
そして、こんなご時世だからこそ、業界・世代・気分を切り取った断片的な非難・中傷・行動でなく、他者を思んばかった言動をしたいと思います。